近藤 紘子。 ヒロシマ、60年の記憶 / 近藤 紘子【著】

牛込キリスト教会

何もなくなってしまった広島市内、どんな焼け野原の中でも、夫婦ですから、歩き方や姿勢などで分かったのでしょう。 被爆者の救援に早くから取り組んだ父・谷本清牧師の献身的な働きを織り交ぜながら、未来を担う子供たちへの想いを綴った自叙伝。 なぜなら、本当に憎むべきなのは戦争そのものだとわかったからです。 父は何もかも振り切るように、とにかく教会と家族の無事を確認しに走ったそうです。 大きな手袋のように」。 被爆75年の夏、スペインやノルウェーなども含め10社を超えるメディアから取材が殺到した。 われわれは何をしてしまったのか)」と、原爆を投下した自分たちを自責するような文を飛行日誌に記したと打ち明け、涙を流した。

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【報告】近藤紘子さん講演会

何十年か後、私に子供が生まれたとき、母は戦時中に強制収容された日系人に関するドキュメンタリーを父と一緒に観た日の話をした。 10歳で、原爆を投下したエノラ・ゲイの副操縦士の涙に接したことが、その後の人生を変えてゆく。 被爆するも奇跡的に助かり、63年に桜美林高校卒業、アメリカに留学して、66年にセンテナリー短大を、69年にアメリカン大学を卒業。 清さんへのサプライズとして、テレビ局が妻サチさんと紘子さんら子供たちを番組に招待した。 核兵器はこの世から全部なくなってほしい」。 原爆当時、爆心地からわずか1. 著書 [ ]• 」と述べている。

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Vancouver Shinpo

カトリックの神父さまと一緒に、私たちが当時住んでいた場所を訪れたのです。 そんなルイスを見た紘子は、原爆を投下した軍人を一方的に恨んでいた自分の過ちに気がつき、その人にも苦しみがあるのであって、自分の中にも悪があるということに気づいた。 戦後、父の平和への思いを引き継ぎ、海外での講演を含む様々な活動を行っている。 遠くで赤ちゃんの声が聞こえてくる・・・そういう感覚だったそうですが、次第に意識を取り戻して、何とかがれきの中から逃げ出して、そこで見たのは辺り一面の火の海。 講演で紘子さんは、時折と英語を交え、また当時のことを思い出して涙ぐみながら、お父様とご自身の体験を語られました。 和雑誌• これから出る本をさがす• 1955年5月、アメリカ人ジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏の計らいでアメリカの人気テレビ番組「This is Your Life」に父、谷本清さんが出演。 日本じゃ考えられない! そのようなカやカの人と出会うことによって、紘子さんも原爆乙女の女性たちも憎しみを乗り越えていったという、その事実の重みに胸を打たれます。

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ヒバクシャ:2020 近藤紘子さん(75) 葛藤越え和解、信念継ぐ

原爆当時、爆心地からわずか1. 戦後の広島を生きた女性が、「憎しみの連鎖」を断ち切った瞬間とは…?戦争を忘れた現代に告ぐ、ヒロシマの真実。 中学生くらいだったでしょうか。 沖縄の教会を経て43年5月、広島流川教会に赴任した。 早く逃げろ」「私たちのことはもういいから、早く逃げるんだ」という声も聞こえてきたといいます。 「話しているうちに、この子供たちに同じ思いをさせたくないと強く思ったの」と言う。 フェア• 2年後の8月6日、友人の荷物を疎開させるため訪れた爆心地から約3・2キロの己斐(こい)地区で被爆する。

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ヒバクシャ:2020 近藤紘子さん(75) 葛藤越え和解、信念継ぐ

これが世界初の原爆被害、「」として米国の雑誌『ニューヨーカー』に掲載されると大反響となります。 そこで父は英文で、あの日、広島で何が起きたかをレポート用紙8、9枚くらいに書き残し、それを母に渡すよう頼んでおいたそうです。 政府を動かすことは難しい。 母は私を抱っこしながら、高木さんと何かお話をしていたようです。 近藤さんの記念講演会は、バイオリン演奏や原爆詩の朗読などに続き、2時45分からの予定。 『』(日本語)。 記録報道「2020ヒバクシャ」の8回目は、被爆者救済と平和運動に半生をささげたこの牧師を父に持ち、葛藤を乗り越えて国内外で核廃絶を訴え続ける娘の歩みをたどる。

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原爆孤児救った故谷本清牧師の長女 近藤紘子さん、平和の訴え

そして被爆者であることを理由とする数々の苦難。 政府を動かすことは難しい。 時には涙を流し、笑いを交えながら、自らの体験を説いていく。 最後に私が今回のイベントを開催することになったいきさつを簡単に。 一人一人が今、改めて核について考える時が来ているのかもしれない。 牧師の娘であったため、幼少期から、傷ついた女性や子供に接する機会が多かったという。

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